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航空写真機


ネディンスコ型、二十五糎航空写真機(FKI ドイツ)

1846年にカールツァイス社が設立されて以来、光学製品の市場はドイツの独壇場で、第一次大戦勃発時にはすでに偵察用の航空カメラが完成されていた。第一次大戦後ドイツ製カメラは戦利品としてフランス経由で日本へも輸入されていたが、これがカールツァイス社製のFKI型と言われるモデルだった。戦後、敗戦国ドイツでは兵器類の生産、輸出を制限されていたためカールツァイスはオランダに子会社、通称ネディンスコNedinsco(Netherland Instrument Company)社を設立し、ここを生産と販売の拠点として世界に輸出していた。logo当時まだ航空写真機の開発、製造技術が確立されていなかった日本は、このネディンスコ社からあらためてFKIを正式なルートで輸入しており、FKI は二十五糎航空写真機という名称で陸軍に採用されたのであった。1918年ころの話だ。日本軍最初の写真機らしい手持ち写真機で、航空写真機のルーツ的存在となっている。ボディは木製であり、大きくて扱いが難しく、日本で採用された当時すでに旧式の感はまぬがれなかったが、純国産機が登場するまでネディンスコ型と呼ばれ主力機として使われていた。

ここに最近インターネットのオークションで落札した一冊の書物がある。タイトルは「写真学教程(戦術偵察学生用)」と言う。当時日本陸軍には三つの飛行学校があり、戦闘機は三重県の明野飛行学校、爆撃機は静岡県浜松、そして偵察機は千葉県下志津陸軍飛行学校と決まっていた。手元にあるこの教科書の表紙には、表題の下に昭和3年(1928年)11月、下志津陸軍飛行学校と記されている。昭和初期と言えば、日本の政治はファシズムへ傾斜、山東出兵を皮切りにいよいよ中国進出が本格化していた時代。一方、世界軍縮会議では日本が不利な条件に追い詰められたことによって、日本は更に軍国主義に流れていった。この教科書の表紙をあけると、実は第1版が大正11年(1922年)とあるからさらに時代は遡る。同年の12月、横浜鶴見の浅野造船所で日本最初の航空母艦「鳳翔」(9,510トン)が完成していた。年が明けるとイギリスのパイロット、ウィリアム・ジョルダン氏が一〇式艦上戦闘機を操縦して「鳳翔」に対し離着艦試験を行った。そんな時期にこの教科書は編纂されたのである。

この教科書の装丁は至って素朴で、紙質は藁半紙よりはちょっと上等な程度。印刷所、発行所、製本書の記述はどこにもなく、学校で手作りしたようなテキストである。文字に活字が使われておらず、手書き文字である。内容は以下の構成である。
第一篇 航空写真の沿革
第二編 航空写真機
第三篇 感光資料
第四篇 航空写真撮影法
第五編 航空写真の調整
第六編 航空写真の標定註記及格納
第七編 写真班の編成業務及其能力
本文40ページ。

25cm航空写真機 25cm航空写真機
この教科書の中の第二編航空写真機に、前述の二十五糎航空写真機(FKI)について詳しく記述されている。念のため、二十五糎と言うのはレンズの焦点距離が25cmということである。本書ではその機種名の後に(獨)と記されており、ドイツ製であることが明確になっている。

本機ノ形状ハ四角錐体ノ頂部ヲ裁断セル如キ形状ヲナシ「マホガニー」製ニシテ内面ニ黒羅紗ヲ外面ニ麻布ヲ貼リ防水塗装ヲ施ス
最前端ニ蓋ヲ有シ留金ヲ脱シ反転シテ機体下面ニ固定シ得
前端内部ニ鏡玉ヲ螺定シ其周囲ハ延長シテ側方ヨリノ射入光線ヲ防ク如クシアリ

ボディ材は木製のため加工しやすいように全体に角ばっており、それは四角錐の頂点をカットしたような形状をしている。さらにその角を大きく面取りをしているから前方から見たレンズ周りの形は八角形である。マホガニー材を使用してその上に内側には黒羅紗を張り、外側は麻布張りをしてさらに防水の塗装を施していた。ちゃんとレンズキャップもついており、それはボディに連結されており、ボタンをはずして反転してボディ下の面に留められるようになっていた。角ばったボディ部分は衝撃等からレンズを守ると同時に光学的には斜めから入射する光線をカットするレンズフードとしても効果があった。

25cm航空写真機 25cm航空写真機
ボディの前方上側にはレンズキャップをとめるボタンがありその後方に絞りレバーがある。このレバーを動かしてfナンバーを4.5、6.3、9の3値に設定できる。絞レバーの後方には照準、つまりファインダーとして使用される金属枠がある。ボディ右側面にダイヤルがあり、これを90度回転することにより内臓のフィルターを着脱する。小窓に黄色い矢印が見ている時フィルターが装着されており、白い矢印はフィルターがはずされている状態を示す。感光剤に過剰に反応する青紫系の色をカットするため、一般に黄色のガラスフィルター(濾光器)が用いられていた。

シャッターはユニット化されていて、右側の長方形になった孔から本体内に挿入しネジで固定される。方式は縦に幕が走るフォーカルプレーン式で、シャッターのチャージは右にある歯車形状のダイヤルをくりくりと回し幕を上の軸に巻き取ることによって行われる。上に巻き上がってから、さらにまわすことにより先幕と後幕の間の隙間の長さが調製されこれがシャッター速度として小窓に標示される。チャージが終わったらHレバー(指桿)をつまんで引きながら前方に動かしてF孔に固定する。これでシャッター速度が決定され、後は右グリップを握ったときに人差し指で操作できるシャッターレバーを押し下げることによってリリースされ、スプリングの力によりシャッター幕が先幕、後幕の順に下の軸に巻き込まれ乾板(あるいはフイルム)への露光が完了する。

写真の出来にかかわる微妙な露光時間をコントロールする、精密さが要求されるシャッターユニットこそ、ドイツ職人の真骨頂であったに違いない。しかしいくらシャッターは精密でも、モータードライブはあろうはずもない。シャッターチャージから乾板の差し替え作業まで手動で行われ、その乾板倉には6枚の乾板した収納できなかったから、当時のカメラマンは機上でかなり忙しかったと思われる。乾板倉はスライド式の引き出しのような構造で、抜き差しする度に露光された乾板が次々に最後部に送られる仕組みになっていた。その抜き差し動作ひとつにしても、操作時はカメラを上向きにして露光済み乾板が後部に落ちやすくするように指示されており、ドイツ製とは言えども、完全な動作は誰も保障してくれないやっかいな精密機械だったことが想像される。

シャッターユニットの内部コーナー部に錘による傾斜角標示装置が二個あり、ひとつは光軸の水平に対する傾斜、もうひとつは光軸周りの傾斜角度を標示するためのもので、それぞれ乾板上に投影記録されるようになっている。 あとで出来上がった写真を分析するために、傾斜角の記録は必須であった。 。

科学朝日昭和17年11月号二十五糎の主な仕様は
レンズ:250mmF4.5
シャッター速度:1/90,1/180,1/375,1/750
シャッター方式:フォーカルプレーン式
乾板又はフイルムのサイズ:13cmx18cm
製造:ツァイス・ネディンスコ

ちなみに250mmレンズは35mmフイルムに換算すると約50mm。つまり標準レンズ相当である。航空写真用レンズの場合、常に焦点距離は無限遠で使用するためフォーカスの調整機構はない。 ところでFKIのIはアルファベットのIではなく、ローマ数字で1を表す。同社製造のFKUと言う型があるがこれはFKIよりも大きく、50cmのレンズを備え、主に気球での観測用に使われた。
海軍とネディンスコ型カメラこの頃の光学史に関する資料は非常に少ないため製造年、製造数などの正確な数字が得られないのが残念である。このネディンスコ型航空写真機はその後小西六(現在のコニカミノルタ)でその設計構造が研究調査され国産化された。その後陸軍では航空写真機の開発が旺盛になり、第二次大戦前からアルミ合金製の九六式小航空写真機がネディンスコ型に取って代わり、さらに発展したレンズ交換型の百式小型航空写真機に移ってゆく。一方海軍では航空写真機技術について陸軍ほど体系化されていなかったようで、現存する史料も少ない。海軍にはフェアチャイルド社製カメラを基本に開発したF−8手持ち航空写真機があったが、陸軍と同じネディンスコ型(国産)もまた永らく使用されていたことが当時の写真からわかる。

日本海軍ではFLKと呼称されていたものらしい。 日本の軍用カメラ、そして一般コンシューマー向けカメラの発展にも影響を与えたネディンスコ型航空写真機であった。

ネディンスコ やがて月日は流れ、戦後、平和な時代を象徴するかのように生まれ変わったネディンスコ社製の普及型35mmフイルムカメラが発売された。その名はプリモという。小さいそのボディデザインには25糎航空写真機を髣髴(ほうふつ)とさせるものがあった。

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