1970年代、国内線はYS-11の独壇場だった。その全盛期には100機以上のYS-11が日本列島を飛び回っていた。YS-11は唯一の国産旅客機で政府からも日本企業からも応援されていたから、それ故に国内の市場を同クラスで独占できたと言う向きもあるが、60席の双発ターボジェット旅客機は世界的にも価値あるものだった。経済性からもライバル機に十分太刀打ちできる性能だった。例えば、全日空で運用されていた記録的ベストセラー、フォッカーF28は40席、4発のビッカース・バイカウントでさえやっと64席だったから双発で60席のYS-11は魅力的であり、全日空は順次YS-11に入れ替えていった。
その性能は海外の航空会社にも評価され、国内だけでなくアジアやアメリカ大陸に輸出された。それでも海外販売台数があまり伸びなかったのは、航空産業における日本の知名度が低かった事、アフターサービス面における地理的な不利があるだろう。もしボーイング社などが販売、サービスを担当していたならばYS-11の販売数は飛躍的に伸びていたに違いない。
日本では名機と呼ばれているYS-11も結果的に生産数は200機に達することはなく、世界の航空史に名を刻むことはなかった。そして2006年9月30日、ついに最後のYS-11キャリアー、日本エアコミュータによる運行も終了することになったのである。
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