2.フィジー偵察
1942年(昭和17年)3月19日、フィージーのスバを偵察飛行。
「こんなきれいな海に敵がいるのかなぁ」
エメラルド色のさんご礁の海は、遠洋航海と偵察任務でぼろぼろになりそうな身体を一瞬癒してくれるのであった。
「藤田飛曹長、海は南へ行けばいくほど美しくなるのでしょうか」
「いや、日本の周りだけが潮の影響で黒いのさ。奥田兵曹、帰投の針路を出してくれ」
「はい、針路030。約1時間で予定帰着点、伊25潜と会合します」
伊25潜は去る1942年2月、マーシャル諸島クエゼリン基地を出港して南半球の偵察に向かった。シドニー、メルボルン、ホバート、ニュージーランド、フィジーの湾岸を零式水偵で偵察。このフィジーの偵察行を最後に、トラック島で給油して横須賀に向かう。---横須賀基地着、4月4日
伊25潜の田上艦長と藤田飛曹長のチームワークは絶妙で、甲板で行う飛行機の組み立て、カタパルト発進、そして偵察飛行後の洋上収容までの作業は迅速で、失敗もなく、次々と偵察の成果をあげていた。大戦を通じて、この伊25潜の任務遂行能力は水上機を搭載した潜水艦の中でもトップクラスであったと思われる。
一方、予科練出身のパイロットである藤田飛曹長にとって、偵察飛行などあまりにも単純で味気なかった。それでいて再び母艦と遭遇できないのではないかという不安を常に抱きつつ、毎日過酷な潜水艦生活を強いられる。「俺は貧乏くじを引いてしまった」と思っていた。そしていつか零戦のように、この零式小型水偵に爆弾を搭載して敵を攻撃することはできないものかと本気で考えていた。最高時速240キロの豆飛行機で何ができるかと笑われそうだが、潜水艦の強みも生かして敵地に忍び込み、奇襲をかけることは可能だろうと考えた。
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