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tommy rose


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悲劇
2002年9月13日金曜日、午後2時45分、スポーツクラスレース。同クラスに4回出場しているベテランパイロット、トミー・ローズの操るワインレッドに塗られた、レースナンバー3のクエスター・ベンチャー「ランブリンローズ」は図らずも一位(グリーネマイヤー氏)から大分遅れを取っていた、しかし4周目に入ったトミーは冷静で沈着、とくに無理を押してスピードを上げる様子はなかった。大部分の観衆の目はトップを走る名パイロット、グリーネマイヤーのランクエアを捕らえていた。トミー・ローズがスタンド前の直線コースに入ってメインパイロンを通過した後のほんの一瞬、トミー・ローズの機体から何か小さな物が落下するのを一部の観客は見逃さなかった。その後トミー・ローズの機体は上下のコントロールを失ったかのように真っ直ぐ砂漠の中に突っ込んでいった。砂埃が上がったが炎は見えなかった。破片が飛ぶように見えた。水平尾翼かエレベータに何らかの構造的トラブルが発生したものと思われるが、記者会見では「前を飛ぶ飛行機の乱流による墜落」と言う発表だった。トミー・ローズは即死だった。
レッドフラッグが揚がり同レースはすぐに中断されたが、以降のスケジュールには変更はなかった。ここがアメリカの合理的な判断である。「死んだトミーもレース中断は望んでいないだろう」「レースを続けることが彼に対する最大の追悼である」と発表した。1999年の事故のときにも同じような判断があった。たしかに墜落事故があったからと言ってレースを途中で中止していたら、リノエアレースそのものの存在が危うくなる。レースには事故がつきもの、死傷者が出ることは誰もが予想出来ることだ。危険を承知のレースである。観客は危険を見るためにここを訪れ、パイロットは危険だから挑戦するのだ。いままでに何度も致命的事故は起きている。リノエアレースは、アメリカ人にとって拳銃、ライフル、ドル紙幣と同じ、受け継いで行きたい伝統のひとつとなっていた。
最終日、トップでフィニッシュしたグリーネマイヤーがトミー・ローズの冥福を祈るようにパイロンを周回したのが印象的だった。

以下、過去におけるリノエアレースの致命事故

1999年、ゲイリー・レヴィッツ(Gary Lavits)操縦の極度に改造されたP-51「ミス・アシュリー」がレース中に空中分解。

1998年、ディック・ロバーツ(Dick Roberts)操縦のフォーミュラ1レーサー「ミス・メイビー」がレースの直後砂漠の中に墜落。心臓発作が原因。

1994年、ビル・スピア(Bill Speer)操縦のP-51「ラ・メサ」がエンジントラブルで風防にオイルが飛散し墜落。

1994年、ラルフ・トゥオンブリー(Ralph Twombly)操縦のT-6がレーススタート直後に他のT-6と接触、飛行場西の民家に墜落。

1993年、リック・ブリッカート(Rick Blickert)操縦のレース専用に開発されたアンリミテッドレーサー、「ポンドレーサー」が着陸態勢に入る時に墜落。

1989年、エロル・ロバートソン(Errol Robertson)操縦のF1レーサーが墜落。

1987年、エロル・ジョンスタッド(Errol Johnstad)操縦のF1レーサーが墜落。

1981年、ボブ・ダウニー(Bob Downey)操縦のF1レーサーが練習中に墜落。

1979年、フレッド・ウォフォード(Fred Wofford)操縦のF1レーサーが旋回時に原因不明で墜落。

1978年、ディミトリー・プライアン(Dimitry Prian)とドン・デウォルト(Don DeWalt)操縦のT-6がレース中に空中接触。二機共墜落。以後安全のため1979年、1980年の同クラスレースを中止。

1975年、M.D.ウォシュバーン(M.D.Washburn)操縦のT-6がパイロンに接触。

1972年、トミー・トーマス(Tommy Thomas)操縦の複葉機が墜落。


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