ライト兄弟のイラスト title top

空を飛ぶことは人類の夢でした。「鳥のように飛べたらいいなぁ」と誰もが思っていました。一方「人間が空を飛ぶことは不可能である。人間が空を飛ぶ必要があるならば、神様は最初から翼をくれたでしょう」なんて言う人も現れました。でも、空を飛ぶ夢を捨てきれずに、夢に終わらせないように、飛行を研究し実験を重ねる男達がいたのです。ライト兄弟だけでなく。みんな、鳥になる方法を考えていました。
そんな航空史に残る偉大なロマンティストを以下に紹介しましょう。(ライト兄弟の歴史に何らかの関係のある人々を中心にしてます。お誕生日順です。)

ジョージ・ケイリー ジョン・ストリングフェロー ウイリアム・ヘンソン オクターブ・シャヌート
ルイ・ムイラード サミュエル・ラングレー ハイラム・マキシム クレメン・アデル
アレクサンダー・ベル オットー・リリエンタール アルフォンス・ペノー ハーグレイブ
ジョン・モンゴメリー パーシー・ピルチャー 二宮忠八 オーガスタス・ヘリング
ルイ・ブレリオ サントス・デュモン グスタフ・ホワイトヘッド グレン・カーチス


ジョージ・ケイリー(1773-1857)George Cayley
george cayley航空の父とも呼ばれている科学者でバロネットの称号を持つイギリスの貴族。知識人であった彼は技術、社会学、政治学にも通じていたが、もっとも興味を持ち没頭したのが空気より重い飛行機械に関する研究であった。1799年に初めて近代の飛行機に近い機械の概念を発表した。ケイリー卿は翼について、上向きの揚力ベクトルと抗力ベクトルの概念をすでに認識しており、流線型という概念もしっかりと認識していた。傾斜させた翼を飛行方向に運動させて重量を支える方法、そしてそれには抗力に打ち勝つだけの推進動力が必要であると言う考えはケイリー卿によって始めて明瞭に言い著されたと言って良いだろう。ケイリー卿の研究ノートに描かれていた翼断面の形は、現在の翼型に酷似している。ケイリー卿の研究成果はライト兄弟によって現実のものとなった。

ジョン・ストリングフェロー(1799-1883)John Stringfellow
john stringfellowstringfellow machine 1848イングランドのレース工場で働く生産技術者。蒸気機関に興味を示し、小型で軽い蒸気エンジンを設計、製作していた。空飛ぶ機械「Arial}の提案者ウィルアム・ヘンソン(下記)と組み、航空機用蒸気エンジンの開発と機体の制作を担当した。
その後Arialが失敗し、ヘンソンがアメリカに去った後もイングランドに残って航空機の開発を継続した。工場跡の細長い部屋に張ったワイヤーに飛行機械をぶら下げる方法で実験が繰り返された。1848年に、二つのプロペラと小型蒸気エンジンを備えた単葉機の模型を開発、公開している(図参照)。さらに息子と共同で、いくつかの蒸気エンジン付きの模型が製作されテストされた。中でも1868年に製作された三葉機のモデルは、折から開催されていた世界初の飛行機械の展示会に展示され、その後の航空機発展に影響を与えた。

ウイリアム・ヘンソン(1812-1888)William Samuel Henson
wilium hensonarielケイリー卿の航空理論にも詳しいイングランド生まれの技術屋であり発明家。1842年ころに翼幅約46メートルと言う巨大な、現在の大型旅客機に匹敵するような蒸気機関による旅客用飛行機(Aerial Steam Carriage)を発案した。彼の夢は壮大で、その飛行機をArielと命名し、1943年に世界中をArielで旅行するための航空会社まで組織され、ポスターが制作され宣伝活動が行われた。Arielの開発は友人ジョン・ストリングフェロー(上記)と共に行われ、1944年から1847年にかけて大型模型が制作され飛行試験が何度も行われたが、満足に飛行することはなかった。世間からは詐欺師集団のように言われ、やがて組織は解散、1884年、ヘンソン一家は金銭的な理由もあり、イングランドを去りアメリカに移住した。その後二度と航空に手を染めることはなかったと言う。

オクターブ・シャヌート(1832-1910)Octave Chanute
chanutemultiwingフランス生まれの土木エンジニア。アメリカでは鉄道関係の仕事に従事し、鉄橋などの設計、建設で有名。鉄道会社引退後は航空に興味を示し、1894年に航空の発達史をまとめた"Progress in Flying Machines"を著し、世界の航空研究家に広く知られるところとなった。この本は全世界の飛行研究家の参考書となった。1896年に自らも飛行の実験を開始し、マルチウイング(多葉機)などを製作して、ミシガン湖のほとりでグライダー実験を行った。ライト兄弟からの手紙をきっかけに、ライト兄弟に色々とアドバイスをすることになる。ライト兄弟と交わした手紙の数は500通とも言われている。ライトの初期グライダーの原型はシャヌートのグライダーに倣った。いわばライト兄弟の師匠的存在。そのわりにはライトが初飛行に成功してからは、シャヌートとの仲はあまりよろしく無かった。ライト兄弟としては、自分たちに師匠がいると思われたくなかったらしい。アメリカ人に「義理」はわからないのであった。

ルイ・ムイラード(1834-1897)Louis Pierre Mouillard
mouillardエジプトのカイロに住んでいたフランス人で、詩人でもある。鳥の観察で有名。羽ばたくことなく、悠然と大空を飛翔するハゲワシに興味を持って観察していた。そこで彼は、鳥は旋回する際に、行きたい方の翼の先端に抵抗を生じさせることに気づいていた。これは非常に重要な発見で、その後ライト兄弟のパテント論争が航空界を賑わした際に、オクターブ・シャヌートがこのムイラードの報告を引用して、撓(たわ)み翼は公知であり、ライトのパテントは無効であると言うことを説いた。ムイラードはオクターブ・シャヌートと親交を深め、手紙をやりとりしながら議論し、グライダーの実験も行っていた。1881年には「The Empire of the Air」という航空学の本を出版し、これはシャヌートにより英訳された。

サミュエル・ラングレー(1834-1906)Samuel Pierpont Langley
langleyaerodromeボストン生まれのアメリカを代表する科学者の一人。学歴は高卒だったが、技術者として民間企業に勤めた後アナポリスの海軍士官学校で数学の教官となり、次にはピッツバーグ大学で教授として勤めるなどして出世した。シャヌートともお友達である。1887年からはスミソニアン研究所の理事となり、飛行の研究にも従事した。1896年に模型飛行機の開発に成功し、政府から50,000ドルの援助を得て、本格的飛行機の実験をおこなった。1903年の10月7日ポトマック河にて、完成した「エアロドローム」と呼ばれる飛行機を船上のカタパルトから飛ばす実験を試みたが失敗。また12月8日に行われた実験も失敗した。同じころノースカロライナで実験していたライト兄弟が動力飛行に成功し、彼は公費を無駄に使ったとしてマスコミからもたたかれ引退した。しかし彼の航空界に捧げた生涯と研究の成果は後に高く評価され、スミソニアン協会は「ラングレー・メダル」賞を設立した。「ラングレー・メダル」の第一回目の獲得者がライト兄弟であった。このラングレー・メダル受賞はライト兄弟とスミソニアン協会の間に紛争が生まれるきっかけとなった。ちなみにラングレーメダルはその後、グレン・カーチス、リチャード・バード、チャールス・リンドバーグなど著名航空人が受賞している。

ハイラム・マキシム(1840-1916)Hiram Stevens Maxim
percy pilcherアメリカ合衆国メイン州出身の発明家。機関銃の発明が有名だが、航空にも興味を示し、機関銃の発明による富を飛行機械の開発に投入した。彼の実験は1881年にイングランドに渡った後に開始された。1894年に全長60m、翼幅32m、機体重量約3.6トンという巨大な飛行実験機を完成した。この実験機は複葉で、180馬力の蒸気エンジン二基の動力により二つのプロペラを回し、鉄道レール上を滑走して揚力を得るものであった。もともと揚力が得られることを立証することが目的で、飛行距離を追及していたわけではなかった。したがって操縦装置も付いていない。多少浮いたところで大破してしまった。

クレメン・アデル(1841-1925)Clement Ader
Clemen AderClemen Aderフランスの独学エンジニア。通信機器の発明家でもあったが、彼を最も有名にしたのは蒸気機関を動力とした飛行機の研究であった。1890年10月9日、パリの郊外で飛行実験を行い、「エオール」と名付けられたコウモリ型の飛行機で約50メートルの飛行に成功したと言う。さらに三番目の実験機「アビオン3型」を完成し、1897年10月14日、300メートルの飛行に成功したと発表した。当時、このアデル自身のコメントをフランスの誰もが信じていたが、その後歴史研究家によって飛行を実証するものが全く無いことがわかった。もしアデルの飛行が本当ならばライト兄弟より先に飛んだことになるが、けっきょく世間からも認められなかった。ただフランスでは、飛行機の父として今でも讃えられている。アビオン3型の外観はコウモリそのもので、素人目にも飛びそうにない。

アレキサンダー・ベル(1847-1922)Alexander Graham Bell
Akex Bellスコットランド生まれの発明家。1868年ロンドンの聾唖学校教師になる。1870年7月カナダに移民。1872年にボストンに聾唖学校設立。1882年にワシントンDCに移り米国市民権を得る。聾唖者の教師としてヘレン・ケラーも教えた事がある。オクターブ・シャヌートがライト兄弟の師匠ならば、ベルはカーチスの師匠。ベルと言えば電話の発明であまりにも有名だが、電話の発明で富を築いた後はカナダのノバスコーシアにあるバデックで、ひたすら凧やグライダーなどの飛行実験をしていた。1907年10月にカーチス等若手の技術者を集め、自ら出資してAEA(飛行実験グループ)を結成した。AEAは「ジューン・バグ」、「シルバー・ダート」などの飛行機を製作し、ライト兄弟のあとを追った。AEA解散後もカーチスはAEAでの実験に基づいてさらに独自で飛行機を開発製作していった。ベルはまた水中翼船の実験も行った。いろいろな事で社会に貢献した人望ある博士。

オットー・リリエンタール(1848-1896)Otto Lilienthal
lilienthal飛行実験のパイオニアとなったドイツの技術者で飛行研究家。コウノトリの飛翔を研究し、鳥のように羽ばたいて飛ぶことを考えていた。1881年からグライダーを製作して飛行実験を繰り返し、その総数2000回。そのグライダーは体重を移動してバランスを保つ方法でコントロールされていた。リリエンタールは翼のキャンバーの効果を立証したことでも有名。1886年には動力機関による飛行も計画されていたが、その前にグライダーで墜死してしまった。ライト兄弟にもっとも影響を与えたのもリリエンタールであることは間違いない。リリエンタールの墜死事故のニュースがライト兄弟を刺激し、飛行機の開発に踏み切らせた。またライト兄弟は、フライヤーの製作、実験にあたって、リリエンタールの飛行データを非常に参考にしている。リリエンタールの存在がなければ、ライト兄弟はなかったのではないだろうか、とも思わせる。

アルフォンス・ペノー(1850-1880)Alphonse Penaud
penaudpenaud模型飛行機の父とも言われるフランス人。ゴム糸を動力としてプロペラを回す模型飛行機を製作し、1871年8月18日、パリで行われた実験で55メートル、11秒の飛行に成功した。ペノーはその特許によって、全重量1200キログラムくらいで、20-30馬力のエンジンを持つ飛行機を設計出来ると考えていたが、中風にかかり、貧乏で世間からも認められず失意のあげく、自ら30年の生涯を絶った。彼の発明品のひとつであるヘリコプターのおもちゃはアメリカでも販売され、デイトンで暮らしていた幼ないライト兄弟の手に渡ったと言う。彼の夢がライト兄弟に乗り移ったのかも知れない。

ローレンス・ハーグレイブ(1850-1915)Lawrence Hargrave
hargraveオクターブ・チャヌートをして「もっとも飛行の成功に足る男」と言わしめたイギリス生まれの飛行研究家。移住先のオーストラリアで飛行実験をしていた。箱形凧(ボックスカイト)の発明で有名。1872年に金鉱を求めてオーストラリアに渡り、しばらく探索した後にオーストラリアに永住することを決意。ニューサウス・ウェールズの王室協会のメンバーになった。1878年にシドニー気象台で天文観測のアシスタントを4年間勤めた後、残された生涯を有人飛行実現のための研究に捧げた。彼の発明である箱形凧はサントス=デュモン、ブレリオ、ファルマン、ボアザン兄弟など欧州の飛行研究家に多大な影響を与えた。ライト兄弟もシャヌートの著書などからハーグレイブの実験について知っており、影響を受けていると思われるが、例によって本人達は否定している。またロータリーエンジンは彼の発明の一つで、これもその後の航空機エンジンの標準的な形態として受け継がれている。自分の発明に関しても一切パテントを取得せず、何事にもオープンでひたすら航空の発展を願っていた航空黎明期の偉大なる貢献者のひとり。

ジョン・モンゴメリー(1858-1911)John Joseph Montgomery
montgomery1884 年からカリフォルニアでグライダー実験を繰り返していた、アメリカの飛行実験家の一人。1904年頃からは気球でグライダーを吊って上空から切り離すと言うユニークな方法で実験していた。1911年にグライダー「エバーグリーン」号でテスト飛行していた際、失速し、墜落して2時間後に死亡した。ライト兄弟との関係はと言うと、1917年に残された未亡人、家族が「ライトのパテントは1906年のモンゴメリーのグライダーに抵触している」として、政府とその時同パテント所有していたライト・マーチン社を訴えた事くらいだ。この訴えはもちろん通らなかった。今でも地元ではモンゴメリーのグライダー実験の業績が称えられ、記念碑も建てられている。

パーシー・ピルチャー(1866-1899)Percy Sinclair Pilcher
percy pilcherイングランド生まれの発明家。6年間イギリス海軍に務めた後、数年間造船所のエンジニアとして働き、大学の講師になった。航空に興味を持ち、マキシムの実験にも参加した。1895年にバットと呼ばれるグライダーを完成した。グライダー実験で有名なオットー・リリエンタールにも面会して飛行理論について語り合った。彼は常に動力飛行を目指していた。やがて彼の製作した最も成功したグライダー「ホーク」に動力を付ける事を考えた。1899年9月末には動力飛行が可能な状態まで計画が進んでいたが、「ホーク」の公開グライディングテスト中に尾部構造が壊れ、墜落してしまった。その二日後に彼は死亡。夢は実現しなかった。

二宮忠八(1866-1936)にのみやちゅうはち
ninomiya玉虫型飛行機愛媛県八幡浜に生まれ、少年の頃に凧に興味をいだき、独自の考案による「忠八凧」を何種類も製作販売した。その後カラス、トビウオ、昆虫など飛行するあらゆるものを観察して、独学により飛行の原理を研究する。そして1891年4月29日、ゴム動力による模型飛行機の飛行に成功する。日清戦争従軍中、偵察に使う飛行機の有効性について玉虫型飛行機の設計図とともに上申書を提出したが、当時参謀長の長岡外史大佐はこれを一蹴した。軍が頼りにならないと悟った二宮は、民間の製薬会社に勤め出世し、開発のための資金を作り、いよいよ動力つき飛行機の製作にとりかかった頃、ライト兄弟の人類初飛行のニュースを新聞で知り、落胆し、絶望し、その後二度と飛行機の製作をすることはなかった。

オーガスタス・ヘリング(1867-1926)Augustus Moore Herring
herringユニークな飛行研究家。大学で航空学を学んだらしいが卒論は航空関係ではなかった。ラングレーの下で働いたと思うと、今度はシャヌートに弟子入りしグライダー実験を行う。またライト兄弟にも接近したが、ライト兄弟とヘリング=ライト航空機製造会社を設立するとういう企ては失敗。カーチスを上手いこと口説いてヘリング=カーチス社を設立。しかしすぐに倒産。ヘリングはライト兄弟より先に、圧縮空気を利用したモーターで飛行に成功したと話が伝わっているが真偽は今でも藪の中。アイデアマンではあったが、あまり人から好かれない、どちらかと言うと空飛ぶペテン師と言う印象がある。でも当時翼を夢見ていた男たちのひとりだった。

ルイ・ブレリオ(1872-1936)Louis Bleriot
Louis Bleriotパリで商科と芸術を学び、自動車のヘッドライトの製造で一儲けした後、30歳になって初めて飛行機に興味を抱き空を飛ぶために生涯を捧げることになる。飛行家としてはちょっと遅咲きであった。その初期に置いては試行錯誤を繰り返していたものの、2年で世間に品質と性能を認められる飛行機の生産ラインを作りげた。1909年には自作のブレリオXIを駆ってドーバー海峡を横断し、一躍世界に天才として認められる所となった。ブレリオXIは各国に輸出され、軍用としても多用された。ブレリオXIはそのコントロールにライト兄弟と同じ撓み翼方式が採用されていたため、アメリカに輸出された際には、特許抵触で警告を受けたが、それでもお構いなしに各地のエアレースに参加しては抜群の成績を残していた。ライト兄弟のライバルの一人。ブレリオXI は飛行スクールでもよく使用され、アメリカではハリオット・クインビー女史の愛機となった事も有名である。ただし後になって空中安定性に問題が発覚し、ブレリオXIで命を落としたパイロットも多い。クインビー女史もその犠牲となった。

アルベルト・サントス-デュモン(1873-1932)Albert Santos-Dumont
santos-dumon14bisブラジルのコーヒー農場で育ったお坊ちゃん。父親の怪我のため農場を手放し両親とともにフランスに渡る。機械に興味を示し、なんと17才で車を買ったと言う。その後は飛行船の製作に没頭する。1898年から1905年までに11艘の飛行船を製作した。これで彼は有名になって1904年にはアメリカの大統領にも会見している。その後飛行機に興味を示し、1906年、自分で作った「14bis」号で60メートルを飛行した。これが人類初の動力付き飛行機として認められ、賞まで授与された。当時アメリカ国内でさえライト兄弟が1903年に飛んだと言う話は信じられていなかった。つまり、1908年にライト・フライヤーがフランスでデモ飛行するまでは、世界初と言うことになっていたわけ。サントス-デュモンは1907年に、(たぶん)世界初のホームビルト小型飛行機ドゥモアゼルを開発した事でも有名。ちなみにドゥモアゼルの翼は日本製シルクであった。

グスタフ・ホワイトヘッド(1874-1927)Gustave Albin Whitehead (Weisskopf)
whiteheadwhitehead21彼はライト兄弟より先に動力飛行を実現したと噂されるひとり。ドイツのバファリアで生まれ、幼い頃から凧に興味をもっていた。13歳にして両親を亡くし、機械整備士としての訓練を受けた後船員として働く。各地を転々としたあと1884年にアメリカに上陸。しばらくボルチモアでグライダーのテストをしていたとの記録がある。1897年にはボストンの航空協会でグライダーを製作していたと言う。1901年8月14日、コネチカット州ブリッジポートの近くで彼の製作した単葉機「No.21」は彼の操縦により、自作の蒸気機関を動力として1/2マイルの飛行に成功したと言われる。これは地元の新聞にも掲載された。しかし現在に至るまでこの飛行は認められていない。やがて、飛行機研究家たちが次々と現れ飛行機が発達してゆくと共に彼の飛行機への興味は薄れていった。第一次大戦が始まるとドイツ人である彼は周囲から偏見と侮辱の目で見られた。53歳で亡くなった後に家族に残されていたのは自分で建てた家と少ない土地、そして現金5ドルだけだったと言う。スミソニアン協会とライト兄弟の間の紛争の際、スミソニアンがホワイトヘッドの飛行を引用したことがあるが、証拠不十分でホワイトヘッドの飛行記録は立証できなかった。波乱の生涯が彼の存在をますます見えなくしているところがあるが、「もしかしたら・・・」と思わせる。

グレン・カーチス(1878-1930)Glenn Hammond Curtiss
curtissjunebugライト兄弟最大のライバル。ライト兄弟にしてみれば、ライバルなんて生やさしいものではなく仇敵、天敵。1878年。ニューヨーク州ハモンズポートに生まれる。幼い頃から父を亡くし、母親に育てられたカーチスは高校卒業と同時にコダック社に入社。しかし自転車に乗りたくて郵便屋に転職。さらに自転車熱に犯され、自転車レーサーになる。その後結婚を機に安定した収入の得られる自転車屋を開業。自転車にモータを付けてオリジナルのオートバイを製作し、販売を開始する。またオートバイで速度記録などを達成して有名になった。航空機用(飛行船用)のエンジンを開発し販売していたことから、ベル博士に誘われ、AEA(飛行実験グループ)に参画、飛行機の実験を始める。1908年7月には4日に、1000メートル以上の飛行に成功し、サイエンティフィック・アメリカン賞を受賞。その後自ら航空機製造会社を設立する。ライト兄弟にとって初めて本物のライバルが登場したわけだ。カーチスはパテント侵害で、ライト兄弟から訴えられる。ライト兄弟がパテントを盾に航空界に君臨し、孤立化して行ったのに対し、カーチスはラングレーのエアロドロームを修復して飛行に成功させるなどして、他の飛行研究家とも友好関係を築いていった。1919年には飛行艇NC-4が初めて大西洋を横断に成功するなど、カーチス社はアメリカの航空機トップメーカーになった。

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