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1867年4月16日 |
インディアナ州ミルビルにてミルトン・ライトの三男ウィルバー誕生。 |
1871年8月19日 |
オハイオ州デイトンにて四男オービル・ライト誕生。 |
1876年 |
アレクサンダー・グラハム・ベルが電話機を発明。 |
1877年1月30日 |
西南戦争勃発。西郷軍約3万人、政府軍約6万人。9月24日に終結。 |
1878年5月21日 |
グレン・カーチス、ニューヨーク州ハモンズポートにて誕生。 |
1889年3月1日 |
1210 West Third ST.の1部屋を借りて新聞「West Side News」を印刷発行。その後1060 West Third St. のフーバー・ブロックビルの二階角のスイートに移動。(これはそのまま今も同じところに残っている) |
1891年4月29日 |
二宮忠八がゴム動力の模型飛行機の実験に成功。30メートル飛行。 |
1892年12月 |
1005 West Third St. の部屋を借りて自転車店の準備。 |
1893年 初春 |
自転車店開業、その後すぐに1034 West Third St.に移転。新車の販売と修理。 |
1894年 |
オクターブ・シャヌート、「Progress in Flying Machines」を出版。 |
1894年8月 |
日清戦争勃発。-1895年3月終結。 |
1895年 |
22 South Williums St.に移転。2階は印刷屋、1階が自転車屋。オリジナルブランド自転車製造開始。商品名Van Cleveはかれらの父方の先祖の名前に由来している。ちなみにCatharine Van Cleveは白人女性として初めてデイトンに足を踏み入れた探検家。彼女の最初の夫はインディアンに殺されている。
ここで1896年にオットーの墜死の記事の記事を読み、飛行の研究を開始する。(このビルはレストアされて同じ場所に今も建っている。)
その後1127 West Third St. に移転。ここで、全ての実験機が製作された。(1936年にヘンリー・フォードがこの建物を購入してデアボーンの博物館に移設。) |
1896年6月22日 |
オクターブ・シャヌート等、インディアナ州ミラー・ビーチにて最初のグライダー実験。マルチ・ウィングをテスト。 |
1896年8月 |
オービル、腸チフスで病に伏す。重症で約6週間ベッドの上で暮らす。 |
1896年8月9日 |
ドイツの飛行研究家オットー・リリエンタールが自作のグライダーで墜落し死亡。ライト兄弟が飛行機の研究を始めるきっかけとなった。
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1896年8月21日 |
オクターブ・シャヌート等、インディアナ州デューン・パークにて2度目のグライダー実験。複葉グライダーにて71.7メートルの飛行に成功。 |
1899年5月30日 |
ウィルバーがスミソニアン協会に手紙を書き、航空関係の資料を要求。その後サミュエル・ラングレーの実験資料をオーダー。 |
1899年7月 |
飛行機の研究が始まる。横安定性のための工夫を検討。左右の翼の取り付け角度を変化させれるために、たわみ翼を考案した。 |
1899年8月 |
実験用に複葉の凧を製作、大きさ1.5メートルx33センチ、たわみ翼装置付き。後に縦安定性(longitudinal stability)のため水平安定板を後部に追加した。 |
1899年12月 |
気象庁に手紙を書き、飛行実験に適した、定常的に風の吹く場所を探す。 |
1900年5月
| ウィルバーがはじめてオクターブ・シャヌートに手紙を出し、飛行機開発の援助、アドバイスを要請。 |
1900年9月-10月 |
ノースカロライナ州キティホークにキャンプを張り、グライダー実験を開始。材料調達の都合で計画より若干小型のグライダーとなる。翼布にはフランス製綿繻子(めんしゅす)を使用。全幅5.3メートル、重量23.6キログラム、翼面積15.3平方メートル。凧式の実験10分とトータル2分ほどのグライディングに終わる。 |
1901年7月27日 |
キティホークにて有人グライダー完成、実験。リリエンタール等にならってキャンバー(翼断面の湾曲)を増加(1/12)したが、その後減少(1/18)。翼先端の後部を丸めた。全幅6.7メートル、翼弦長2.1メートル、重量44.5キログラム、翼面積27平方メートル(エレベータ;翼弦長1.4メートル)。毎秒7.6メートルの風が吹けば、3度の迎え角で離陸する計算だった。垂直尾翼の必要性を発見。主翼にかかる揚力中心の移動を観察。8月20日---キティホークを去る。
秋から冬にかけてデイトンの自転車店にて風洞実験。200種の翼型を試験。アスペクト比が大きい方が空中に支持されることを発見。その他、それまでの飛行に関する理論をくつがえしていった。 |
1901年9月18日 |
シャヌートの勧めで、ウィルバーがウエスタン・エンジニア協会にて講演。グライダー実験の成果について説明した。 |
1902年8月25日 |
3回目のキティホーク。グライダーの組み立て、キャンプ設備の整備などを終え、9月19日に最初の実験。 |
1903年3月23日 |
ライト兄弟、撓(たわ)み翼を請求範囲とて「飛行機械」を特許申請。 |
1903年10月7日 |
ラングレー博士(Professor Samuel P. Langley)の製作した有人動力付き飛行機「エアロドローム」がポトマック河にて飛行に失敗。 |
1903年12月8日 |
ポトマック河にてラングレーの「エアロドローム」2度目の失敗。 |
1903年12月17日 |
ノースカロライナ州、キティホークにて、ライト兄弟が世界で初めて人間の操縦による動力付き飛行機の飛行に成功。この日最初の飛行ではオービルが操縦して、飛行時間12秒、飛行距離36.6メートルを達成した。
これを目撃した見学者は沿岸警備隊キティホークの駐在3人、John T. Daniels、W.S. Dough、A.D. EtheridgeとW.C. Brinsky、Johnny Mooreの2人、合わせて5人だけたった。目撃者が少なすぎたため、ライトの世紀の飛行はニュースとしてあまり派手に報道されなかった。
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1904年1月24日 |
フロリダのオルモンド・ビーチにてグレン・カーチスがオートバイによる世界速度記録達成。時速220キロメートルだった。 |
1904年2月 |
日露戦争勃発。-1905年9月終結。 |
1904年5月26日 |
新型機ライト・フライヤーII、デイトンのハフマン牧場にて飛行テスト。無風でも離陸できるようにカタパルトが製作された。 |
1904年9月20日 |
ウィルバー・ライト、初の周回飛行に成功。 |
1905年6月26日 |
新型機ライト・フライヤーIII、ハフマン牧場にて飛行テスト。 |
1906年5月22日 |
ライト兄弟の申請していた「飛行機械」が特許登録される。US特許番号821,393 |
1906年 |
サミュエル・ラングレー死去。 |
1906年10月17日-31日 |
ジョン・モンゴメリーがカリフォルニア州エバーグリーン・バレーでグライダー実験を行う。非公式ながら240メートルの飛行を達成したという。 |
1906年10月23日 |
フランスに移住していたブラジル人のサントス=デュモン(飛行船の開発者としても有名)が自作のボックスカイト型の飛行機「14bis」にて60メートルを飛行し、アルクデアコン賞の3000フランを獲得した。ヨーロッパではこれが世界で初めて動力飛行であると認定された。ライト兄弟の飛行のニュースは正確にヨーロッパに伝わっていなかった。しかもライト兄弟の記録は公式ではなかったため信頼性に欠け、ウィルバーがフランスで飛行するまではサントス=デュモンが世界初と信じられていた。 |
1906年11月12日 |
サントス=デュモンが「14bis」にて220メートルの飛行記録達成し、さらに航空クラブから贈られる1500フランの賞金を獲得した。 |
1906年11月22日 |
ライト兄弟、公開テスト飛行をいっさい行わないことをアナウンス。 |
1907年5月16日 |
ウィルバー、飛行機販売のため訪欧。フライヤー・モデルAをデモのため輸出。モデルA は複座型。初めてパイロットも座って操縦することができた。商用量産モデル。
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1907年7月20日 |
オービルがウィルバーの後を追って訪欧。 |
1907年10月1日 |
ベル博士(Alexander Graham Bell)AEA(Aerial Experiment Association)を結成。 |
1907年12月23日 |
アメリカ陸軍が飛行機の要求仕様を発表。 |
1908年5月21日 |
ウィルバー、フランスでのデモ飛行に出発。 |
1908年6月20日 |
オービルがカーチスに対して「ジューン・バグ」のエルロンがライトの撓(たわ)み翼のパテントに抵触していることを警告。 |
1908年7月4日 |
ニューヨーク州ハモンズポートにて、グレン・カーチス(Glenn Curtiss)はAEAの「ジューンバグ」号を操縦して、サイエンティフィック・アメリカン賞に価する直線1キロメートルの飛行に成功。彼はライトに次いでアメリカで2番目に動力付き飛行機で空を飛んだ人となった。 |
1908年8月8日 |
ウィルバー、フランスで最初のデモ飛行。 |
1908年9月3日 |
オービル、バージニア州フォート・マイヤーにて米軍向けライト・ミリタリー・フライヤーの最初のデモフライト。 |
1908年9月17日 |
AEAのメンバー、セルフリッジ(Lt. Thomas Selfridge)がフォート・メイヤーにてオービル・ライトの操縦する2人乗りライトフライヤーに同乗して墜落死亡。オービルは負傷。 |
1909年2月24日 |
AEAの実験機「シルバーダート」がノバスコシア、バデックでマッカーディ(J.A.D.McCurdy)の操縦により7.2キロメートルを飛行。カナダ(英連邦)初の動力飛行だった。 |
1909年3月20日 |
へリング・カーチス社設立。 |
1909年5月13日 |
ウィルバーがイタリアでフライトデモ。 |
1909年5月13日 |
ライト飛行機ドイツ会社設立。ドイツ、ルクセンブルグ、トルコ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク市場におけるフライヤー販売ロイヤルティ(10パーセント)を獲得。 |
1909年7月25日 |
フランスのルイ・ブレリオがブレリオXI機にて英仏海峡を横断。 |
1909年8月2日 |
アメリカ陸軍が最初の飛行機をライトから購入。価格は2,5000+5,000ドル(軍の要求するスピードを4キロ上回ったボーナス)。 |
1909年8月8日 |
オービルが妹のキャサリンを伴ってデモ飛行のためデイトンを出発。 |
1909年8月18日 |
ライト兄弟がへリング-カーチス社とグレン・カーチスをパテント侵害で提訴。 |
1909年8月22-29日 |
フランスのランス(Rheims)にて航空競技会が開催される。
同競技会中、第1回ゴードン・ベネット・カップにグレン・カーチスが優勝。
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1909年8月30日 |
オービルがドイツ、テンペルホフにてデモフライト。引き続き9月6日-11日に公式デモ飛行を実施。 |
1909年9月-10月 |
ニューヨーク州にてフルトン-ハドソン祭開催。ウィルバーがマンハッタンにて展示飛行実施。グレン・カーチスも参加するが飛行出来ず。 |
1909年11月22日 |
ライト社設立。資本金100万ドル。ウィルバーが社長に就任。 |
1910年1月3日 |
ニューヨーク州バッファローで行われたライトパテント訴訟裁判で、カーチスの飛行機の製造販売を差し止め。ただしその後10000ドルの保証金によってカーチス機の飛行は可能となった。 |
1910年2月 |
ライト兄弟が、航空で功績を納めた人にスミソニアン博物館から贈られる第一回ラングレー・メダルを受賞。この一件からスミソニアンとの抗争が始まる。
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1910年3月 |
展示飛行を専門に行うライト・エグジビション社設立。-1911年11月に解消。 |
1910年4月10日 |
へリング-カーチス社倒産。理由は過剰な資本調達に対して運転資金の不足、ライトの訴えが公になった事による信用の失墜、またユーザに対する保証問題、へリングの裏切り、詐欺行為、着服の露呈、エンジンの開発遅れ、資金の調達不能。
その後会社はオークションに出されたが、カーチスがすぐに買い戻す。 |
1910年5月29日 |
グレン・カーチスがニューヨーク州オーバニーからマンハッタンまで飛行。賞金10000ドルを獲得した。 |
1910年6月14日 |
控訴審がライトがパテントの抵触でカーチスを訴えた地方裁判所での決定を無効にした。抵触が明確でないと言う理由で。
(なお、パテントの有効期限は1923年まで) |
1910年6月29日 |
ライト・モデルB完成、30-35hp、車輪付きの橇(そり)、リア・マウントのエレベータ、米陸軍がトレーニング用に2機購入。 |
1910年10月25日 |
モデルR(ロードスター)をさらに小型化したベビー・グランドは1910年ベルモント・バーク・ミートにてオービルの操縦で時速112キロ以上の速度を記録した。 |
1910年 |
オクターブ・シャヌート死去。 |
1910年12月19日 |
代々木練兵所にて、徳川大尉の乗るアンリ・ファルマン複葉機、日野大尉の乗るグラーデ(ドイツ製)単葉機のテスト飛行。日本で最初の飛行として「公式」に認められる。 |
1911年5月5日 |
奈良原三次、「奈良原式2号」機を製作、所沢陸軍飛行場にて飛行。日本初の国産機となった。エンジンはグノーム50馬力。 |
1911年10月13日 |
徳川好敏設計による陸軍制式機第一号「会式1号」が初飛行。 |
1911年6月27日 |
リンカーン・ビーチー氏がカーチス機でナイアガラを飛行。 |
1911年7月1日 |
カーチスA-1 、75hp、複座、初飛行。 |
1911年9月17日-11月15日 |
カル・ロジャースはライト・モデルEX「ヴィンフィズ」号で初のアメリカ大陸横断飛行に成功。ニューヨーク市ブルックリン地区のシープスヘッド・ベイからカリフォルニア州パサデナまで49日間かかった。
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1911年10月16日 |
1911型新型グライダーの飛行実験。全幅9.8メートル。10月24日に9分45秒滑空の世界記録達成。 |
1912年5月30日 |
ウィルバー・ライト、腸チフスで死去。 |
1913年4月16日 |
初のシュナイダー杯水上機レースがモナコで開催された。フランスのデュペルデュサン水上機が優勝。 |
1913年5月1日 |
オービルがライト最初の水上機モデルCHの実験を開始。フロートを付き60hp、その後米海軍が1機購入。 |
1914年6月2日 |
ラングレーのエアロドロームがグレン・カーチスによりレストアされ、ケウカ湖にて飛行に成功。この実験によりライトフライヤー以前に飛行可能な飛行機が存在したことを証明することが目的だった。 |
1914年7月28日 |
第1次世界大戦勃発。 |
1914年9月5日 |
日本海軍水上機「ファルマン水上機」が青島要塞攻撃に参加。はじめて飛行機を実戦に使用した。 |
1915年初頭 |
ヨーロッパ戦線に戦闘機が登場し、空中戦が始まる。 |
1915年10月15日 |
オービル、ライト社を売却。 |
1915年 |
ライト・モデルK完。 |
1915年 |
ライト・モデルL、70hp、単座偵察機完。 |
1916年8月 |
ライト社はマーチン社と合併。ライト・マーチン社となる。 |
1917年2月1日 |
ドイツ、潜水艦による無差別攻撃を宣言。 |
1917年4月6日 |
アメリカ、ドイツに戦線布告。 |
1917年 |
航空機産業の発展と促進するため、政府指導により航空機製造業協会が設立され、航空機関係のパテントを集中管理することになる。これによりライト対カーチスのパテント紛争にも終止符が打たれた。 |
1918年11月11日 |
第一次世界戦終結。 |
1919年5月14-27日 |
海軍のリード中佐1行のカーチスNC-4複葉大型飛行艇は、ロングアイランドのロッカウェーを発ち、ニューファンドランド、アゾレス島、スペインを経由してイギリスのプリマスまで飛行。各地でストップしながらも世界で初めて飛行艇で大西洋を横断した。 |
1925年10月 |
米ボルチモアで開催された第7回シュナイダー杯にて、ジミー・ドゥリトル操縦のカーチスR3C-2レーサーが優勝。 |
1927年5月21日 |
チャールズ・リンドバーグ、ニューヨーク〜パリ間を無着陸飛行。その距離5810km、時間33時間39分。 |
1928年1月31日 |
オリジナルの1903年型ライト・フライヤーがイギリスの科学博物館展示のため輸出される。ワシントンのスミソニアン博物館が展示を拒否したため。オービルは輸出の前にスミソニアンに最後の確認をしているが返事はなかった。 |
1929年6月26日 |
カーチス社とライト社が合併。カーチス・ライト・コーポレーションとなる。 |
1929年8月19日 |
ドイツの飛行船「グラフ・ツェッペリン」が霞ケ浦に飛来。 |
1930年7月23日 |
グレン・カーチス死去。 |
1932年11月19日 |
ノース・カロライナ州キル・デビル・ヒルにライト兄弟記念碑建立。 |
1937年4月10月 |
朝日新聞社の「神風号」が東京-ロンドン間を飛び、長距離速度記録樹立。 |
1939年4月1日 |
各務ヶ原にて、日本帝国海軍の誇る零式艦上戦闘機が初飛行。 |
1941年12月8日 |
日本海軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃。 |
1943年 |
フレッド・C・ケリー氏著作、オービル・ライト認定のライト兄弟伝記「ザ・ライトブラザーズ」出版される。 |
1945年8月14日 |
日本、無条件降伏。終戦へ。 |
1948年1月30日 |
オービル・ライト死去。 |
1948年12月 |
オリジナルの1903年型ライト・フライヤーがイギリスの科学博物館から帰還、スミソニアン博物館に初めて展示された。その日から現在に至るまで、入り口の大ホールの天井から吊られて、世界中か訪れる人々を歓迎している。 |
2003年12月17日 |
ノースカロライナ州キティホークにて航空100周年記念式典が開催され、ブッシュ米大統領が祝辞。ライトフライヤーのレプリカが飛行を試みるも、向かい風が不足して十分な揚力が得られず飛行は失敗に終わる。 |