ライト兄弟のイラスト Kity Hawk 1900 top

1900kite 1900年9月12日、ウィルバー・ライトは初めてキティホークの海岸を見た。長い旅だった。その日船内で夜を明かし、翌朝、通りがかりの少年に案内されてビル・テイト氏の家を訪問した。テイトは地元の郵便局長であり、人望もあり、いわば土地の顔。ウィルバーがキティホークの気象台に問いわせた際に紹介された人物である。テイト家で久々においしい手料理を味わい、旅の疲れを癒したのも束の間、翌日にはテイト家から800メートル離れた砂地にテントを張った。ウィルバーは早速仕事に取りかかった。グライダーの翼に高級なフランス製のサテン(綿繻子)が張られた。翼桁に使用するための木材はノーフォークで購入できたが、所定の長さの木材が見つからず、翼幅が予定より少し短くなってしまった。しかし実験には支障がない。
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弟のオービルが到着するまでに全ての飛行実験準備を終えておくつもりだったが、荷物や水を運んだり生活のための仕事も多かったため、グライダーの組み立てが思ったほど進まず、9月28日、オービルが到着した後にもやるべき事がまだかなり残っていた。二人で協力して食事の用意や皿洗い、水くみをする生活が始まった。グライダーの組み立ては急ピッチで進んだ。完成したグライダーは23.6キログラム、合計翼面積は15.3平方メートル、主翼の前方には水平安定板が備えられたいた。ライト兄弟の発明による撓(たわ)み翼機構もすでに採用されていた。ただし全体のイメージは飛行機という形にはほど遠く、グライダーというより凧に近かった。実際、ライト兄弟は凧のように両翼に結びつけたロープを地上から引っ張る方法でテストされた。この実験によって揚力と抗力(風の抵抗)を測定することができた。

このテスト中、ライト兄弟は予想を裏切る結果を見ることになった。兄弟の計算したとおりの揚力が得られなかったのである。ライト兄弟はリリエンタールの揚力表の値を参考にして翼を設計していた。計算では時速27〜34Km(秒速7.5〜9.4メートル)の向かい風が吹けばパイロットを乗せて飛べるはずだったが、実際にはもっと強い風が必要であった。「リリエンタールの翼よりもキャンバー(翼の反り)が浅いせいだろうか」「翼の布から空気が漏れているのだろうか」悩んだ。

グライダーをキャンプから6.4キロほど離れたキルデビルヒルと呼ばれる砂丘まで運び、斜面を利用して、パイロットを乗せたグライディング実験をしたが、やはり満足行く結果は得られなかった。なおこの実験にはビル・テイトがアシスタントとして協力していた。グライダーの発進は、パイロットが腹這いになって下翼の中央に乗り、両翼端を二人が支えて風に向かって走りながら手を離すという方法だった。しかし安全性の面からこの年の実験は凧式が多く、人が乗ってグライディングしたのは合計2分程度に終わった。撓み翼によるコントロールを実証できたことが唯一の収穫だった。やがて風は穏やかになり、10月23日彼らはキティホークを去る。 二人がキティホークを発つ直前グライダーは丘の上から放り投げられ、僅かに滑空して砂地に着地し、そのまま廃棄された。

捨て置かれたグライダーの翼の布地を見つけて、ビル・テイトの妻はその生地で二人の娘に服を作ってあげたと言う。彼女曰く「なんて高級な生地なんでしょう。これを凧に使うなんて、もったいない事を・・・。」

1900年、彼らはまだドイツの飛行実験家リリエンタールの実績に惚れこんでいた。彼の残したデータをそのまま信じていた。揚力が得られないのはリリエンタールの使用した翼よりもキャンバーが小さいせいだと半ば結論づけていた。リリエンタールの件に限らず、ライト兄弟は過去の研究家たちが残した資料から多くを学んでいたのである。そしてそれをよりどころにしていた。これら先人達の残したデータに疑問を抱くようになるまでに、あと一年かかる。
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1900camp
荒涼たる1900年のキャンプ遠景
ライト兄弟が世話になったキティホークのビル・テイト氏とその家族。家が郵便局になっているのがいかにも田舎だ。
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